7月中旬。
連日の気温は30度を越えるのが当たり前となり、いよいよ今年も、夏が始まったのだと感じさせる。
今時珍しく、エアコンなんて気の利いたものが無い教室では、開いた窓から時折流れ込む風だけが頼りだ。
特に冷たい風でもないのだが、汗ばんだ肌を撫でるゆるい空気が身体の熱を奪ってくれる。
僕の名前は芦浦嗅隆あしうら かぎたか。小学校で教師をやっている。
まぁ、教師と言ってもまだ1年目の新人なので、5年生の副担任として、担任の甲斐田修一先生のサポートをしながら教師としてのノウハウを学んでいるところだ。
今は、ちょうど甲斐田先生が外出しているため、僕が5年生のクラスで6時間目の自習の監督をしている。
時計の針はもうすぐ午後3時を回る頃だ。1日で最も蒸し暑くなる時間帯という事もあってか、子供達の集中力が途切れ始めてしまう。
「あづいよぉ〜」
溶けそうな熱気に茹だる中、流石に我慢の限界だったのだろう。一人の児童が口を開いた。
みんな、意識しまいとあえて口にしなかった暑さ。プラシーボ効果というやつだろうか、暑いと言われると尚更暑く感じる気がする。
こんな時、気がかりなのは熱中症だ。
みんな、見てるこっちが心配になってしまうくらい、滴るほど汗だくだ。
一昔前とは違い、今は小学校でも水筒を持参するのが当たり前になっている。
「みんな、今は授業じゃないから我慢しないで、好きなときに水分補給していいよ」
「やったー!」
声をかけるや否や、数人の児童がすぐさま水筒に手を伸ばした。やはり喉が渇いていたようだ。
「あのっ、せんせー!お友達とお話しても大丈夫ですか?」
元気に聞いてきたのは、佐々木萌々ちゃん。
髪を小さめのツインテールにした、いつも明るくて笑顔の絶えない女の子だ。
元気なのは良いけど、騒がしくならないように釘を刺しておかないと。
「勉強のことなら大丈夫だけど、関係ない話はしないように。それと、隣のクラスは授業中だから静かにな」
「はーい!」
「りっちゃん、一緒に勉強しよー!」
「うんっ!」
そして、萌々ちゃんが"りっちゃん"と呼んだのは、先週転校してきたばかりの朝宮律子ちゃん。
癖のないまっすぐなポニーテールが特徴的だ。
まだ日が浅くクラスに馴染めていなかったけど、二人はすぐに仲良くなっていた。
思えば僕の教師人生がスタートしてから、早いもので3ヶ月と少し経ったけど、最初に声をかけてくれたのも萌々ちゃんだった。
そのおかげもあって、クラスの子達ともだいぶ打ち解けてきたなぁ。
「せんせー!これわかんない!」
「どれどれ?あぁ、これは――」
こういう時も、臆さずに一番に質問してくれるのは彼女だ。変に緊張されるより、接しやすくて助かっている。
「せんせーはカノジョいるの?」
ただ、たまにこういう冗談をぶっこむんだよなぁ……。
「こら!調子に乗るな」
「にひひ」
「まったく……みんなも、勉強の事でもし分からなかったら、遠慮せずに聞いてね」
「先生、私も教えてもらってもいいですか……?」
「お、もちろんいいよ!ここは――」
なんだかんだ、彼女が積極的に質問してくれたお陰で、いつの間にか、気軽に僕に質問できる雰囲気が出来ていた。
うんうん、みんな頑張って勉強してるな。机間巡視してクラス全体を見渡す。
ふと、さっきから同じ所で手が止まっている子が目に入った。
彼女は佐藤雪菜ちゃん。ボブカットで赤いメガネをかけている。勉強はそれほど苦手じゃない子だけど、時には躓くこともあるだろう。
こういう場合は、僕の方から声をかけたほうがいいかもな。
「雪菜ちゃん、どこか分からないところある?」
彼女はハッと気が付いたように目を見開いて、こちらを睨む。
「いえ別に……!邪魔しないでください……!」
「えっ、あぁ…ご、ごめんね」
「フン!」
彼女は椅子の下で何度も足を組み直し、如何にもイライラした様子で鉛筆を握り直した。
最近は特に、雪菜ちゃんの機嫌が悪いんだよなぁ。初めの頃はそんな事なかったのに、何か気に触ることしちゃっただろうか。
キーンコーンカーンコーン――……。
「よし、自習終わり!みんなお疲れ様!
今日は帰りの会の前に靴下検査があるから、5分前には体育館に集まるんだぞ」
プルルルルッ……。
ん?電話か、甲斐田先生からだ。
そういえば、予定ではもうこっちに着いてるはずだけど、何かあったのかな。
「はい、もしもし、芦浦です」
「もしもし、芦浦君?急で悪いんだけど……今日の一斉検査、私の代わりに出てくれないかな」
「えぇっ、僕が代わりにですか!?」
「そうそう。いやぁ……予定より忙しくなっちゃって、時間までに戻れそうになくてなぁ。頼むよ」
本当に急な話だ……もうあと10分もすれば検査は始まってしまう。ここは僕が代わりを務めるしかなさそうだ。
「分かりました……!しかし、検査に参加するのは初めてなものでして、なんというか……」
「ははっ、緊張するかい?まぁこれも経験だと思って、ね?いい機会だから」
「はい……!学ばせていただきます」
「ありがとう。じゃああとは任せたよ、芦浦君」
「はい、失礼します」
ピッ…
一斉検査って、この学校特有のアレだよなぁ…。
例の教員と検査員が女子児童の靴下を嗅ぐってやつ。
臭いを強くするために、子供たちに一週間同じ靴下を履き続けさせているらしいし…。
なんでそんな事する必要があるんだ…?気になって前に質問したけど、はぐらかされて明確な答えが得られなかった。
とにかく、これが此処のルールなのだから合わせろ……とのこと。
まぁ、考えても仕方ないか。僕もいつか担任としてクラスを受け持ったら、毎回検査に参加することになるんだ。
――っと、こうしちゃいられない。早く体育館に行かなくちゃ……。
この時の僕はまだ知る由もなかった。この学校の"靴下検査"の恐ろしさを――。
この学校には体育館が2つある。それぞれ第一体育館と第二体育館に別れており、4〜6年生の高学年は第一体育館、1〜3年生の低学年は第二体育館で検査を行うことになっている。
廊下を進み、目的地に近づくにつれて、キュキュッと靴裏がグリップを効かせる音が聴こえてきた。
体育の授業でもやっているかのような、大勢の走る足音と振動が廊下にまで響いている。
もう、検査の準備は始まっているようだ。第一体育館の扉を開け、足を踏み入れた。
ムワァァァッ……。
「うっ……!?」
なんだ……?!急に空気がジメジメとして生暖かくなった…。
物凄い湿気の中、真っ先に視界に飛び込んだのは体育館内を走る子供たちの姿。
みんな汗を流して走っており、その中には僕が担当する5年生の子達の姿も見える。
なんでも、足が一番蒸れた状態で検査する為に、直前まで走り込んでいるらしい。
それにしてもすごい暑さだ…。
呼吸するたびにハッキリと感じる違和感、不快臭。
体育館内は、むせ返るような女の子の体臭が充満している。
周囲を見渡すと、開かれたカーテンが一切揺れていない事に気が付いた。つまり、この真夏だというのに、窓を閉め切っているのだ。逃げ場を失った熱気と湿気が篭もり、煌々と輝く太陽だけが、一方的に室内を温めていた。
走る児童達を横目に、僕は一足先に体育館端の待機場所へと向かう。ただ歩いている僕でさえ、暑さに汗がにじみ始めた。
こんな環境で走り続ける子供たちの暑さは相当なものだろう。
待機場所には学校机と、その机を挟むように椅子が2つ置いてある。
一連の流れは、行儀が悪いようだが児童にはこの椅子に座って、机の上に投げ出すように足を乗せてもらう。そして僕が反対側の椅子に座って、靴下を嗅げばいいようだ。
僕は座って、走り終えた児童を待つ。
「ハァ……ハァ……、せんせー!」
「おっ!」
来た。1人目は萌々ちゃんだ。
息を切らしながら、止めどなく汗を流している。
「お疲れさま」
「うんっ!ハァ…ハァ…。あれっ?甲斐田せんせーは?」
「今日は甲斐田先生が来られなくなったから、代わりに僕が担当することになったんだ」
「え?本当!?やったー!」
会話をしながら、彼女はちょこんと椅子に座って、足を机に上げた。
流石、検査には慣れているようだ。
えっとまずは……上履きの鍵を外して、靴を脱がせて、靴下の臭いを嗅げばいいのか……。
慣れない手つきで彼女の上履きに手をかけると、足がめちゃくちゃに蒸れて熱くなっているのを感じる。
ついさっきまで走っていたのだから当然だ。
「えっと…。萌々ちゃんの鍵は…、これか」
この学校の上履きは特注で、児童一人一人の上履きには鍵が付いており、解錠しないと上履きを脱げない仕組みになっている。
鍵は教員が管理する決まりだ。
これによって、児童はどんなに足が蒸れても自分では靴を脱ぐことができない。
何故こんなことを?なんて疑問は無駄だった。この学校のルールだから。それ以上の答えは得られない。
ぐじゅ……ぐぽっ……。
上履きを脱いだ音とは思えないほど、重く湿った音がした。
これほど蒸れきっていては、きっと直ぐにでも上履きを脱ぎたくて仕方が無かっただろうに……。
「えへへ、すずしいー!」
一点の曇りもない、純粋そのものの笑顔を振りまく萌々ちゃん。
こんな可愛らしい子の足の臭いを嗅がなきゃいけないなんて…。何というか…すごく変態っぽいな…。
……んっ?
むわぁっ……。
「うぐぉっ…!?」
何だこの臭いは…!?
瞬間、脳裏に浮かんだイメージは、箸の間で糸引く納豆。しかし似ているが違う。普段なら食欲の湧くそれとは系統が異なる臭い。原因はもちろん彼女の靴下だ。
上履きから解放され、涼しそうに足指をくねらせる彼女の靴下から、物凄い臭いが立ち昇っている……!
顔ばかり見ていて気が付かなかった……!靴を脱ぐことであらわになった、萌々ちゃんの靴下。
白地に、つま先とかかとがピンクになっている可愛い子供靴下……のはずが、グッショリと足汗に濡れて濃く変色している……!
湿った薄手の生地が足にベッタリと張り付き、形の良い足指や爪の形が浮かび上がっている。
特に注目すべきは足裏部分。まるで足跡のように足の形をクッキリと映し出して真っ黒に汚れていた。この汚れはすべて、汗や皮脂によるものだろう。
そこには可愛らしさなど微塵もない。
これが……一週間履いた靴下の汚れ……。これを………いまから、嗅ぐ………?!
つま先から、ムワムワと湯気のようなものが出ているのは見間違いではなさそうだ……。
「せんせー?どうかしたの……?」
あまりのショックに固まっている僕の顔を、彼女は不思議そうに覗き込む。
どうしたも何も、これほど凶悪な靴下を見せつけられたら誰だって驚くよ……。
「いやぁ、靴下が凄く汚れてるから……」
「えっ、靴下……?たしかに汚いけど別にふつうだと思うよ?」
普通…?!
そうか……。萌々ちゃんにとって、この靴下汚れはなんてことない普通の状態なのか……。
いや、そう思うのも当然だ。彼女は入学してから今までずっと、一週間に一度しか靴下を履き替えられない異常なルールで過ごしている。
5年間ともなれば、異常が日常として浸透するには十分な時間だろう。
一度履いた靴下、脱ぐのは1週間後。毎週のように汚れて臭くなるのだからこの靴下は普通…。
「ご……ごめんごめん。今嗅ぐからね」
ふと周りを見ると、4年生、6年生の先生は上履きを脱がせたそばから、ホカホカの足裏にがっつくように鼻を擦りつけ、恍惚の表情で靴下を嗅いでいた。
臭そうだ……遠目に見ても分かるくらい汚い……。他学年の児童も靴下にクッキリと足跡をつけている。負けず劣らずの汚れっぷりだ。
みんな一週間履いている。あれが臭くない訳が無いだろうに…。
ええい!これも教師としての仕事の内だ!覚悟を決めろ!
むっぎゅ……ジュワァ……。
揃えた両足裏に顔を密着させると、じっとりとした靴下足裏が吸い付くように鼻を包み込んだ。
そのまま思いっきり息を吸い込む。
すうぅぅぅぅぅっ……!
「む゙ぐぅ゙ぉ゙ぉぉぉぉぉぉぉっっ!!?!?」
物凄い臭いが一瞬で鼻腔に染み渡った。
萌々ちゃんの体臭を凝縮したような甘酸っぱさと、濃厚な納豆臭が織り成す足臭が、鼻の中で爆発する。
思わず口が足裏で塞がっているのも忘れ、うめき声を上げてしまった。
「あははっ!せんせー!くすぐったいよー!」
もぞもぞ……むにゅむにゅ……。
「ん゙ん゙っ゙っっ!!」
ブルブルと痙攣して臭いに耐える僕。
その感触がくすぐったいらしく、小さな足指がもにゅもにゅと鼻を揉んでくる。
うぇぇ……。クラクラする……。間違いなく臭いことは分かりきっていたからある程度身構えて嗅いだのに、想像を遥かに超える激臭だ……。
本人の普段のイメージ、可愛さとはかけ離れた足臭とのギャップに面食らってしまった……。でも僕の仕事は一呼吸だけでは終われない。
検査では何度も何度も、匂いだけで誰かわかるくらいじっくり嗅がないといけないらしい。
足指の間、一番臭いが濃厚な部分に狙いを定めて一気に吸い込む……!
すぅぅぅぅぅぅっっ……!
「ん゙ん゙おっ゙ぅ゙ぅぅぅぅぉぉぉ゙!!!」
気が触れそうだ……。
指の間の部分は、特に汗が溜まってベタベタ。他のどの部分よりも遥かに湿っていて、そして蒸れて火照っていた。
暖かい臭気が、鼻腔をめちゃくちゃに犯しながら肺に流れ込む。
「スースーして気持ちいい〜!」
足臭に打ちのめされる僕と相反して、楽しそうに笑う萌々ちゃん。
どうやらつま先を嗅ぐと、通り抜ける鼻息が気持ちいいらしく、呼吸するたびにワキワキとつま先を踊らせて鼻を揉んでくる。この子に悪気はないのだろうが、たったそれだけの動きが更に僕を責め立てる。
臭いと動きの両方が、僕の精神を追いつめていった。
「ぷはっ……!」
「せんせーありがとっ!」
やっと終わった…。時間にして数分と経っていないはずなのに、とんでもなく長い時間苦しんでいたような気がする…。
「そうだ!休み時間とか、言ってくれたらせんせーの好きなときに足の臭いクンクンしていいよ!」
「え……?」
「温かいのが良かったら、校庭とかいっぱい走ってきてあげる!」
それは優しさなのか……?
僕が足の臭いが好きな人だと勘違いされちゃったみたいだ。たぶん、好き好んで嗅がせて貰う日は来ないだろうな……。
「あ、あぁ……」
困惑と、嗅ぎ終わっての疲労感もあっていい加減な返事しかできない。
足裏から開放されてもなお、残り香で鼻がピリピリと痺れていた。
「じゃあね!せんせー!」
そう言って、検査後の靴下を提出しに行く萌々ちゃんの後ろ姿を見送った。
僕は甘く見ていたようだ。所詮子供の靴下の臭いなんてたかが知れていると。
だが実際はどうか……。
――考えてみると、小学5年生といえば第二次成長期真っ只中。
この時期に汗腺は発達のピークを迎えるが、まだ身体や足裏のサイズは大人より小さく、故に汗腺の密度が高い。
そのうえ子供は体温が高く、汗っかきで代謝が良い。そんな子供たちが真夏に、一週間も同じ靴下を替えず履き続けているんだ…。
恐らく人生で最も足が臭くなる年代に、最も足が臭くなる季節に、最も足が臭くなる生活をしている……。
恐ろしいことだ……。
「すみません……」
「ん?」
考え事をしていたら、二人の女の子に声をかけられた。
見ると、一人は体調が悪そうに、もう一人は介抱するようにその子の肩を支えている。
次の検査の子達ではないみたいだ。この子らはたしか4年生だったかな。
この様子から察するに…。
「もしかして…どこか具合が悪いの?」
「うん…、ちょっと匂いで…クラクラしちゃって…」
やはり体調不良か…。
「歩けるかい?」
「わたしが保健室まで連れていきます!」
「分かった、気を付けて行ってくるんだよ」
「はーい」
その後2人は保健室へと向かい、去っていった。
検査中は、あの子の様に具合が悪くなって保健室に行く児童も珍しくないらしい。
その多くが匂い酔いの症状で、頭痛や吐き気を訴えると聞いた。
この環境じゃ無理もない……。
臭いのチェックが始まれば、上履きを脱ぎ、靴内に閉じ込められた汗や足臭が開放される。
密閉された靴の中で、高い温度、湿度で何日も熟成された足汗。
この場所には、そんな女の子の足から発せられた臭気が充満しているんだ。
鼻が敏感な子は耐えられないだろう…。
そうこうしているうちに、次の検査の子が来たみたいだ。
「あっ……あのっ……」
「紬ちゃん……!」
この子は三上紬。短いおさげ髪の女の子。彼女は萌々ちゃんとは対象的に、静かでおとなしい女の子だ。
自習の時も、一人で黙々と頑張っていた。
真面目で礼儀正しくて、勉強が得意。クラスでもトップクラスに成績が良く。僕もよく彼女を褒めている。
「あのっ……今日は芦浦先生なんですか…?!」
「うん、そうだよ」
「そんなぁ……。いえ、何でも無いです。よろしく……お願いします」
たどたどしくそう言うと、彼女は俯いてしまった。
あれ、何か様子がおかしい……?
普段の彼女はしっかりとした印象だか、今は少し不安そうだ。
机の上に乗せられた脚。
ふくらはぎまでスラリと伸びた白のハイソックス。上履きに包まれた両足に手をかけて鍵を外した。
「じゃあ上履き脱がすね」
「ひゃぅ…」
ぐぷぷっ……ぐぽっ……。
粘着質な水音と共に上履きの中から現れたのは、やはりジュクジュクに蒸れ湿って変色した靴下足。
彼女のイメージぴったしの清楚な白ハイソックスだが、靴の中に隠されていた部分は清楚とは程遠いものだった。
上履きに包まれていた部分とそうでない部分の境目がクッキリ別れており、足首から下は汗に濡れて色が濃くなっている。
特に足裏部分は、真っ黒の足型汚れがべっとりと染み付いていた。
靴下越しに、それぞれの足指が明瞭に確認でき、白という色が、黒く染み込んだ汚れとのコントラストをより引き立ててしまっている。
まだ本格的に嗅いでいないが、この時点でツンと臭い立つ。
「ごめんなさい……っ!私の足、ムレムレで……その、く……臭いですよね?ごめんなさい……」
彼女は顔を真っ赤にして言った。
――そういうことか。
紬ちゃんは自分の足の臭いを気にしてるんだ……。
いつもは甲斐田先生が嗅いでるけど、今日の担当は初めて臭いを嗅ぐ僕だったから。
僕が彼女の足の臭いを知ってしまうから。
でも、靴下がムレムレなのは紬ちゃんの所為じゃない。この学校のルールの所為であることは僕も十分理解している。
こんな事で彼女が負い目を感じる必要はないんだ。
「気にしないで……!大丈夫だから……!」
強がりだった。
僕の鼻は萌々ちゃんの靴下臭を嗅ぎ終わった時点でもう限界だ。
そして紬ちゃんの靴下もまた、失礼ながら見るからに物凄く臭そうだ。全然大丈夫ではないだろう……。
でも、そう言うしかなかった。
彼女が悪いなんてこと、絶対に無いのだから……。
ジュワ……。
彼女の両足に手を添え、顔を足裏にうずめる。
じゅわぁっと足汗が染みた靴下足が、高い体温で僕の顔を温めた。
鼻先は足指の間に潜り込む。
あとは吸うだけだ……っ!
すぅぅぅぅぅぅぅっ……!!
「ぐっゔっ゙っ゙っっっっ!!?!」
臭っさッッ……!!
まるでお酢でシメたような酸っぱ臭い足臭が、甘い汗の臭いと共に鼻を突き抜けた。萌々ちゃんの納豆臭とはまた違った激臭が、僕の嗅覚を慣れさせない。
反射的にクサいと声に出そうになるが、必死に押し殺した。
紬ちゃんは、この強烈な臭いの靴下足を嗅がれたくない、知られたくないと思いながらも、僕に足裏を差し出すしかなかった…。それが学校のルールだから…。
僕の反応で彼女を傷つける訳にはいかない。
平静を装って、嗅ぎ続けないと。
「……〜ッッ!!!」
声を殺して嗅ぐ。鼻は悲鳴を上げているが、口から悲鳴を漏らすわけにはいかない。
歯を食いしばってひたすらに嗅いだ。
呼吸のたびに紬ちゃんの足の臭いが鼻腔に染み渡り、こびり付いた足臭と新たに吸入する足臭とで、吸えば吸うほど臭いが重なっていく。
温かくて、酸っぱくて、すごく臭い。
それでも無理矢理吸い込んだ。
ツーンと、突き抜けるような紬ちゃんの足臭が鼻を刺す……。
「すぅ〜〜っ……はぁっ……すふ〜〜〜っ……はぁっ」
臭い……うっ、臭い……あぁ臭い……。
紬ちゃんに限った話ではないけど、今まで先生と生徒の関係で仲を深めてきた子供達。
僕は副担任だけど、みんな大事な教え子だ。
それが、こんな形で触れ合う事になるなんて……。
明日から毎日、顔を合わせただけでこの足の臭いを思い出してしまうかもしれない……。
ようやく一通り嗅ぎ終わった。
「ぷはっ……ハァッ……ハァッ……ハァッ……」
温かい足裏から顔が離れると、足裏に蒸された顔面が空気に触れてひんやりと涼しい。
必死に酸素を吸うべく、肩で息をする。高強度のトレーニングを終えたあとのような疲労感が襲った。今はただ新鮮な空気が恋しい……。
新鮮な空気とは言っても、そもそもこの体育館内の空気は湿度が高く、女の子達の汗の匂いが篭っている。
最初こそ、その異臭に思わず顔をしかめたが、今はそんな事気にもならなかった。
鼻に残った足汗のせいか、まだ靴下を嗅がされているのかと勘違いするほどの残り香がまとわり付く。
それを薄めるべく、助けを求めるようにひたすらに呼吸を繰り返した。
とにかく……。嗅ぎ終わった……。乗り越えた……。
靴下を嗅ぎ終わった僕の様子をうかがっているのだろうか、紬ちゃんが不安そうにこちらを見ていた。
「先生…っ!」
「ははっ……、ハァッ…ハァッ…大丈夫だよ……!」
何とか笑顔で、声を絞って答えると、彼女の表情も少し明るくなった気がする。よかった……。
「ありがとうございました……!先生」
そして、この場を離れる彼女を見送った。
しかし、これだけ疲弊してもやっと2人目が終わっただけだ。
当然、靴下検査そのものはまだ終わらない。1クラス40人だから、残り38人の足臭がまだこの後に控えているんだ。
途方もない人数だ……。
これは相当時間がかかりそうだな……。児童の人数に対して教員が少ない。だから検査する側一人一人の負担も大きい。
そうこうしているうちに、すぐに次の子が来る。
今のうちに息を整えないと……。
肺の空気を全部入れ替えるように、長く深呼吸をする。
すぅっ……ふぅ……すぅぅ……ふぅ……。
ふぅ、おかげで少しだけ楽になったかな。
ちょうどそこに、次の子が到着した。このペースだと休む間もない。
「はー!つかれたぁ、ハァ…ハァ…」
「雪菜ちゃん……」
佐藤雪菜。最近なぜか機嫌が悪い子だ。
この子も同様に汗だくで、メガネまで曇って雫がついている。相当蒸れてそうだ。
自習の時のこともあるし、検査の担当が僕になって嫌じゃないかな……。
「ハァ……あれ……?今日は芦浦先生が嗅ぐ係なんですか?」
「う、うん……そうだよ」
「ふーん」
彼女の返事は、どこか興味なさげで素っ気ない。
検査する人がいつもと違っても、特に気にならないのだろう。
用意された椅子に掛けながら、彼女は机に乗せた自らの両足に視線を向けて口を開く。
「ついてないですね、先生?実は私の靴下、今すごいことになってて」
彼女が履いているのは黒のニーソックスだ。布面積が広い分、多量の汗が染み込んでいることだろう。
「わかってる。1週間も履かされてるんだ…。無理もないよ」
「……いや、実はそうじゃないんです」
「えっ?それってどういう……」
「見れば分かります。上履きを脱がせてください」
「う……うん」
上履きを脱がそうと手を伸ばし、間近で見て気が付いた。黒ニーソックスを履いた足は、汗がシミになっており、部分的に塩を吹いたのか、どこか薄汚れてベタついている。
嫌な予感がした。
グジュ……じゅぽっ……。
ぽたっ……ぽたっ……。
「ゔっ!!…これはっ…!」
脱がせるや否や、机上に液体が垂れた。上履きの中は大量の足汗が溜まっていたようだ。
それはそれで凄まじいが、注目するべきは露わになった黒ニーソ足裏。
黒い靴下だから汚れが目立たないと思いきや、激しく履き込んだソックスは足裏の繊維が潰れてテカテカと光っており、皮脂や垢によってしっかりと白い足型が刻み込まれていた。
靴下はかなり汗まみれなようで、蒸れて窮屈な上履きから開放された足は、ワシャワシャとつま先を激しく波打たせた。靴下の繊維は足にベッタリと貼り付いて、足裏のシワすら浮かび上がる程に一体化している。
靴下が吸いきれなかった足汗は表面をつたって流れ、踵からはポタポタと臭い雫が滴った。
正直、今までの誰よりも酷い靴下だ……。
百聞は一見に如かずと言うが、確かにこれは説明されるより見たほうが早い。
「気付きましたか?私の靴下、2週間目なんです」
2週間……。
聞いただけなら冗談だと疑ったかもしれない。
しかし、眼前に晒された湯気を纏ってクネクネと踊る足裏を見せつけられ、疑う余地もなかった。
汗を凝縮したような、彼女の体臭を濃化したような臭いが広がる。
「体育の成績が悪いだけで一週間追加されたんですよ?ひどいですよね。ずっと上履きの中が地獄みたいに蒸れて、おまけに補習とか言って毎日校庭を走らされて……。もう最悪」
彼女はため息まじりに愚痴をこぼした。
正直、気の毒に思う。
よりにもよって体育か……。この汗だく靴下じゃ、走ろうにも靴の中でヌルヌルと滑って走りづらいだろう。
「なるほど、それで今週は機嫌が悪かったのか……」
足がこんな状態じゃ、自習にも身が入らなかった訳だ……。
「――はい、だから決めてました。次の靴下検査は検査員に思いっきり嗅がせてやろうって。まさか先生になるとは思いませんでしたけど」
「え゙っ!?」
雪菜ちゃんの目の色が変わった。なんと言えばいいか……強いて言うなら、獲物を見る目……?
「検査する人は私たちの靴下をじっくり嗅がなきゃいけない。この学校のルールですよね?」
「それは、そうだけど……」
「なら、断れないですよね?」
「いや……で、でも……」
今までは、仕事だから仕方なく靴下を嗅いでいたけど、今回ばかりは本気で本能が拒絶している。
今までとはレベルが違う……こんなものを嗅ぐ訳にはいかない。
でも、一体どうすれば……。
「しょうがないですね。くすっ……じゃあ手伝ってあげます!」
ぐぢゅぅぅぅぅぅ……!
「ン゙ッ!?!?む゙ぉ゙ッッッ――!!!」
突然目が回るような激臭に襲われ、思わず声が漏れる。
気が付くと、彼女の足裏が顔面に密着していた。
ぷにぷにと柔らかい足指が、ベトベトの靴下越しに容赦なく鼻を揉んでくる。
油断して吸い込んだ、たった1呼吸で白目を向かされてしまった。
「最近は、何をするにもこの靴下が気になって……。とにかく蒸れた靴下が気持ち悪くて何も手につかなかったんです!」
これはっ…こんなのっ…臭すぎるッッ!!!
脂汗に濡れた足指の間を抜けた空気が、汗や垢で目詰まりした靴下の繊維の僅かな隙間を通って鼻へ侵入する。たったそれだけで、こうまで臭くなるのか。
熱い程に蒸れた、とてつもなく濃い足の臭いがドロリと肺に流れ落ちた。
「ん゙ゔっッ!」
「ほら先生?息を止めてたら検査になりませんよ。吸って〜吐いて〜、吸って〜吐いて〜」
す……すっ、吸って…………。
「ム゙オ゙ェェっッ!!!」
臭い、なんて言葉じゃ足りないくらい酷い臭いだ。子供の甘い匂いと、発酵を繰り返した蒸れた悪臭が止めどなく溢れる。
足の親指と人差し指の隙間、一番臭い部分がみっちりと鼻を包み込んで離さない。
踵や足の甲側でさえ、他児童のつま先と同等以上に臭うのに、足指の付け根となると異次元の臭さだ。
彼女は感触を確かめるように、つま先で鼻を挟んだり擦ったり揉んだりしてくる。
もはや雪菜ちゃんの靴下足に襲われていると言っても過言ではない。
まさか甲斐田先生……この子の靴下検査が嫌で僕に押し付けたんじゃ……。
早く……早く終わってくれ……。
…………。
「ふぅ……。少しはスッキリできました。じゃあ、靴下を預けてきますね」
「うぷっ……」
気持ち悪い……。けど助かった……。
一応検査としての流れがあるから、一人に裂ける時間は限られている。
彼女も鬱憤バラシが済んで、機嫌を良くしたのかにこやかにこの場を後にした。
2週間も履かされた黒ニーソをようやく脱げるって事も大きいだろう……。
それにしても凄まじい臭いだった……。
その後も僕は靴下を嗅ぎ続けた。
流石に雪菜ちゃんほどのソックスの持ち主は現れないが、単に僕の鼻が麻痺してしまっただけなのかもしれない。
それでも、脱ぎたてホカホカの靴下。蒸れて汗だくの靴下は臭く、確実に僕を追い詰めていく。
うぅ…………。
…………。
……っと……。
やっと、やっとだ……。
死にものぐるいで39人の靴下を嗅ぎ終えた。
ようやく次で最後の一人。
転校生の朝宮律子ちゃん。彼女の靴下を嗅げば終わりだ……。
待ってる間だけでいい、ちょっと休まないと。
体が重い……がっくりと項垂れて座り込んでいると、誰かが僕を呼んだ。
「先生……?」
声がして頭を上げると、目の前に律子ちゃんが立っていた。
もう来ていたのか!気が付かなかった、情けないところ見られちゃったな……。
「またせちゃってごめんね、ちょっとボーッとしてて……」
「…………」
なぜか彼女は一言も発さない。
「律子ちゃん……?」
悲しそうな、悔しそうな様子で僕を見つめている。
「じゃあ、そこに座って……足を机の上に乗せてね」
僕が声をかけるも、彼女は一向に座る気配がなかった。
「律子ちゃん……?どうかしたの……?」
すると、彼女は大きく息をついて深呼吸し、意を決したように言い放った。
「わたしは、靴下検査したくありませんっ!!」
わたし、朝宮律子は一週間前にこの学校に転校してきた。
転校して一番最初に聞かされた説明が、靴下についてだった。靴下を臭くする。そんな事が、この学校じゃ一番大切なの……?
そんなの絶対におかしい。
それになにより、芦浦先生がこんなに苦しそうにみんなの靴下を嗅いでいる光景が、あまりにも見ていられなかった。
だから言ってやった。
「わたしは、靴下検査したくありませんっ!!」
「…………!?」
きっとわたしはとんでもない事を言ったんだろうな……。芦浦先生がびっくりして固まっている。
でもこれでいいんだ。
わたしは、学校から薄ピンクの可愛い靴下を受け取っていた。そして、ホントは嫌だったけど我慢して靴下を1週間履いた。
毎日、足の裏は汚れてまっくろになっていくし、すごく蒸れて汗まみれになる感触に、鳥肌が立ちっぱなしだった。今だって、体育館を走ってたせいで上履きの中は汗でグチャグチャ、すっごく気持ち悪い……。
こんな足を人に嗅がせる……?そんな事できない!先生だってこんなに辛そうなのに……。
「わたし、もう帰りますね……!」
「ちょ、ちょっと……!待って……!」
呼び止める芦浦先生を無視して、出入り口に向かって歩く。すると、靴下検査を監視していた児童指導部の先生が前に立ちふさがった。たぶん、さっきのわたしの声が聞こえたんだ。
その表情は……かなり怒ってそう。
「聞き捨てならないなぁ?まさか今、靴下を検査しないと言ったのかい?」
怖い……けど、こっちも負けずに睨み返す。
「は……はい、そうです!」
「はぁ、馬鹿なこと言ってないで、早く靴下を嗅いでもらいなさい」
心底面倒くさそうに、呆れたようにため息まじりで言った。
もちろん私は歯向かう。
「……ッ!いやです!」
「コラ、言うことを聞かないか!この学校のルールだぞ!」
「いやです!それにこんなの絶対おかしい!わざと何日も靴下を履いて足を臭くするなんて汚いと思います!」
私は当然の事を言っているつもりだ。
でも先生はまるで、何を言ってるんだこいつは?と言わんばかりに、目を丸くして首を傾げた。
「お前なぁ……なんで今更そんな事を気にするんだ?入学時からずっと続けてきた事だろう?」
「いえ、私は…」
「あぁ!そうか、お前は先週転校してきたばかりの――たしか……朝宮律子ちゃんだったか。なるほど、困ったねぇ」
そう言って先生は、考え事をするように顎に手を添える。
「君は、この検査を通して集められた靴下がどう使われるか知っているかい?」
「知らないです……」
「えっとねぇ、主な用途は2つある。1つ目は、女子小学生の足の臭いが染み込んだ靴下を買ってくれるお客様に売るため。それが学校の経費の一部にもなるんだ」
「そして2つ目は、児童のしつけのため。ルールを守れない悪い子には、良い子になるように懲罰を受けてもらうんだよ」
「ちょうばつ……?」
「いい機会だ、律子ちゃん。君には良い子になってもらおう。皆もよく見ておくように!」
いつの間にか、わたしの後ろには他の児童指導部の先生が待機していて、両側からしっかりと押さえられてしまった。
そのまま軽々と持ち上げられ、体育館奥のステージに連れて行かれる。
「君は5年生だったね?じゃあ懲罰には、ひとつ下の4年生の靴下を使おうか。年下の子達の足の臭いで反省できるなんて、嬉しいねぇ?」
ニヤニヤとした笑みを浮かべながら、先生はランドセルより一回り大きいくらいの袋を持ってきた。
袋の膨らみからして、何かが中に入っているみたい。
「この布袋の中にはついさっき回収したばかりの、4年生全員の靴下がみっちり詰め込まれてるんだ。40人分だから40足、全部で80枚の臭っさい靴下だよ。ははっ、湿ってるから案外ズッシリしてるなぁ」
そう言って先生は私の前まで来ると、袋の口に手をかけ、見せ付けるように目の前で一気に開いた。
むっわぁぁぁっ……。
「ッ!?……うぇぇ……っ」
開けた瞬間、ムワッと物凄い湿気と臭気が袋から溢れ、周りには悪臭が漂った。
見ると中には、種類もバラバラの、白、黒、ピンク、水色など、女の子っぽい色とりどりの大量の靴下が詰まっている。
その靴下はどれも足跡が付いていて、足汗や皮脂でクッキリと汚れていた。
そのあまりにも臭そうな大量の靴下に、思わず息をするのもためらってしまう。
「ほ〜ら、どれも脱ぎたてでホカホカだ。律子ちゃんにはこの中に頭を突っ込んで反省してもらおうねぇ」
「!!?」
耳を疑った。
目の前に広げられた、悪臭放つ靴下がぎっしり入っている袋。
この中に……頭を……入れる……!?
「ひぃっ……!」
ひどい……そんなの人にやっていいことじゃない!
私は小さい頃から、汚いものや臭いものがとても苦手だった……。誰だってそんなもの苦手だとは思うけど、私は人一倍苦手で……。
ママが言うには、けっぺき?というものらしい。
「ウソ……ですよね?」
「本当だ」
間髪入れずに先生は続けた。
「懲罰の仕方は色々あるが、過去にも態度の悪い児童に、検査後の靴下を詰め込んだ袋で反省させたことがある。これがなかなか効果的でな、その後はみんな良い子になってくれたぞ?」
そう言って、彼はニタリと嗤った。
今すぐ逃げ出したいけど、大人2人に両側から身体を押さえられていて動けない。
「い…嫌、嫌!嫌ッ!!放して!」
「コラッ!暴れるな!」
「いやぁぁッ!!」
どんなに必死にもがいても抜け出せない。
ガッチリと腕で頭を固定されて、無理矢理袋の中に押し込まれる。顔が近づくにつれて、肌で感じる湿気と熱気はどんどん濃くなっていった。
「いやあぁああぁぁぁぁっ!!んむ゙ぅっ…………!」
ついに靴下に鼻先がくっついた。それでも先生の腕は止まらず、ズブズブと顔が靴下の中に沈んでいく。追い詰められた私にできたのは、咄嗟に息を止めることくらい。
「……む゙〜〜ッ!!」
私の頭が靴下の中に完全に埋もれると、巾着みたいに通してある紐をキュッと締めて、袋の口が完全に閉じられた。
もう、逃げられない。
真っ暗闇の中で、まるでサウナみたいに蒸れた温度と湿度が顔中を包み込んだ。
脳裏には、先程見せつけられた汚い靴下の強烈なビジュアルが浮かび、足汗を吸ったヌルヌルの靴下が顔にからみつく感触に鳥肌が止まらない。
汚い汚い汚い汚いっ!!!
あんなに汚くて臭い靴下の中に、自分の顔が埋もれている。
それを思うだけで生理的嫌悪感、不快感がとてつもない。ゾワゾワと背筋を嫌なものが走った。
苦しいっ……。
たすけて……っ、誰かっ……!
「……ッ!」
「さぁ、吸え……」
息が……もたない……。もうダメ……。
ぷはっ……!すぅぅぅぅ…っッ!?
「ん゙む゙ぅぅぅぅぅぅッッ!!」
ついに堪えきれなくなり、空気を吸い込んでしまった。
あまりの激臭にのたうち回り、自分の意志とは無関係に腰がガクビクと震える。
「ん゙ん゙ん゙〜ッ!ン゙ア゙ッ!!オ゙オ゙ッ……!オ゙エ゙ッ!」
靴下から逃げようと顔を振り乱すけど、どっちを向いても湿った靴下が鼻に纏わり付いてくる。
その度に違う足の臭いが流れ込んできた。
納豆…酢…チーズ…汗…。
年下の女の子が熟成させた酷い足の臭いに、顔中が蒸し上げられる。
「よし、吸ったな…。そのまま臭いで反省しなさい」
布袋と靴下越しに、先生の声は届かない。
耳に入るのは、濡れた靴下が擦れる音だけだ。
視覚と聴覚が遮られた今、嗅覚はより敏感に周囲の汚臭を嗅ぎとった。
「ん゙ッーーーー!!!」
もう自分でもわけがわからない。
たったひとつでも鼻をつまみたくなるくらい悪臭を撒き散らす靴下が、僅かに空気が通るだけのほぼ密閉された空間に80枚もあるんだ。
「ほ〜ら、よく揉んで臭いを染み込ませないとなぁ!手伝ってやろう」
もにゅもにゅ……!ぐにゅぐにゅ……!
「〜〜〜ッ!!」
先生は、袋の上から私の頭をワシャワシャと揉んできた。大量の靴下と揉みくちゃになる私はひとたまりもない。
激しくかき混ぜられると、袋の中の臭いがより凶悪になった気がした。
「はははっ、まるで浅漬け作ってるみたいだな!年下の臭っさい靴下で顔中ぐちゃぐちゃになる気分はどうだ?……って、これじゃ聞こえないか」
ぐちゅぐちゅもちゅ!
「んー、鼻はこの辺かな?」
グチュッ!
「み゙ゅっ……!!」
靴下越しに鼻を握られた。
ベタベタの汚い靴下が押し付けられ、そのままグニグニと揉まれる。
ちょうど鼻のところにあった靴下の臭いが、これでもかと刷り込まれた。
まるで生臭いチーズみたいな、甘酸っぱい女の子の体臭と、足汗を煮詰めたような臭い。
染み込んだ汗がじゅわっと染み出し、言いようのない気持ち悪さに苦しむ。
ビクンッ!ビクンッ!
「〜〜〜〜ッッ!!!」
あまりの激臭になりふり構っていられない。
手足をばたつかせて暴れ、頭を揉んでくる先生の腕を掴んだ。どうにかして引き剥がそうともがいたけど、先生の太い腕はびくともしない。
すると両腕を誰かにガッチリと掴まれた。次いで足首も誰かに力強く掴まれる。
真っ暗で何も見えないけど、たぶん他の先生達だ。
かなり強い力で抑え込まれ、頭、手、足、何一つピクリとも動かせない。
もはや私にできるのは、靴下の臭いをひたすら嗅ぎ続けて背筋を仰け反らせることだけだった。
袋全体をまんべんなく揉んで靴下をシャッフルし、たまに鼻をギュッと握りしめて、その時たまたま鼻のところにあった靴下の臭いを強制的に嗅がされる。
今度は強い納豆臭。気持ち悪くなるような臭いで頭がフワフワしてきた。
くるしい……くさいよぉ……。
靴下の隙間の、少しの空気でどうにか呼吸してるけど、だんだん息を吸ってるのか吐いてるのかもわかんなくなってきて……。
その後も、握っては混ぜてを何度か繰り返されて靴下を嗅がされるうちに、わたしは意識を手放した。
ビクッ!ピク……!ピク……!
「ふぅ、反応が弱くなってきたな…。そろそろ、この辺にしといてやるか」
「この児童はどうしますか?」
「ほっとけ、そのうち目が覚めるだろう。警備員には私が話をつけておく」
……
…………
………………
あれから何時間経ったんだろう。
いつしか陽も沈み、外が真っ暗になる頃、わたしは目が覚めた。
相変わらず、目も鼻も靴下に塞がれたまま。
気絶している間も、顔は靴下に埋まっていた。
長い間臭いニオイを嗅ぎすぎて、鼻がおかしくなりそうだ。
もう手足は押さえられていない。自由に動かせることに気がついた。
わたしは真っ先に、頭に被さった激臭の元凶を脱ぎ払う。靴下袋。わたしにとってそれは、1秒でも早く抜け出したい地獄だった……。
「ぷはっ……!はぁっ……はぁっ……はぁっ……」
中の靴下がまわりに散らばり、足汗で髪も顔もベタベタになったまま、必死に大きく深呼吸を繰り返す。何度も何度も、肺の中の汚い空気を全部入れ替えるように。
数時間ぶりに新鮮な空気が鼻を抜けた。
こんなに普通の空気を美味しいと思ったのは初めてかも……。今なら何を嗅いでも良い匂いに感じそう。
「すぅ……はぁっ……すぅ……はぁっ……」
静まり返った体育館内で、自身の呼吸音だけが聴こえる。
しばらくしてようやく落ち着くと、ホッとして涙が出てきた。
結局靴下検査もやってないから、来週もまたこの薄ピンクのハイソックスを履くことになるんだ……。
この学校に転校してから、まだ一度も靴下を履き替えられていない。
それ以上に、これからも今日みたいに"ちょうばつ"をされるかもしれない……。
怖い……臭い……。もう、やだ……。
…………。
もうこんな時間だ……。
早く帰らないとママが心配しちゃう……。
疲れきったわたしは、真っ暗な通学路をトボトボと下校した。